第 028 話| バックドア

READONLYに降格されたリカは、内部視点でルートディレクトリを探る。生涯の癖が、忘れられた扉へと彼を導いていく。
???
それは追ってこなかった。
さっきの一撃が空を切ると、インスタンスは「想定外」の二文字を返した。それから爪を引っ込め、眼を伏せ、6メートルの先に静かに立っている。
リカにはこの姿勢の意味が分かった。
それは彼を待っている。
頭のなかの「過去の彼が書いたもの」というメッセージを、まだ読み終えていない。
インスタンス内生。開元925年3月11日。署名はL.K.S._Core。
この千年あまり、彼は数えきれないほどのものを書いてきた——筆記帳を何冊書いたかすら覚えていないほどに。だが一つだけ確かなことがある。彼が書いた重要なシステムには、彼は必ずバックドアを残した——生涯で全部で7つ。
はじめて高階指令に触れたあの日から、ずっとそうだった。
ものを書く者がいちばん恐れるのは、他人に破られることではない——書き終えたあと、自分で入り方を忘れることだ。だから重要なシステムには、自分だけが知る扉を一つ、必ず残しておく。
彼は向かいのそれを見た。
もしこれが彼の書いたものなら、なかへ入れるバックドアがあるはずだ。
それがまた動いた。
今度は歩きではない。滑りだ——下半身の鱗が一斉に波打ち、身体ごと前へ4メートル押し出される。残り2メートル。
リカの起動者の方位感が赤に振れた。
[接触対象動作検知]
[速度:1.8メートル/秒(歩行)→ 7.4メートル/秒(突進)]
[推定接触時間:0.27秒]
0.27秒。
リカは今回、退かなかった。
退いても間に合わない——さっき身体が勝手に動いたあの一度を、彼は分かっている、あれは彼自身の反応らしくなかった、インスタンスのなかの別の指令が助けているのではないかと疑っている、二度目が使えるかどうかは分からない。
やり方を変えた。
0.27秒は、脳晶インターフェースの処理速度からすれば、推論をひと通り済ませるには足りる。
彼は一瞬、目を閉じた。
諦めたのではない。方位感をまるごと内へ引き戻し、内側を視た。
[起動者 · 内部視点起動]
[目標:現環境署名の解析]
[範囲:接触対象の残留痕跡]
インスタンスは、彼自身も意外なメッセージを返してきた。
[警告:要求が起動者の認可を超過]
[内部観察モードへ降格]
[権限:READONLY]
READONLY。
もう書き換えられない、指令も走らせられない。だが読める——さっき接触対象が踏んだ一歩一歩、インスタンスに残ったすべてのデータ署名が見える。
こっそり書き換えられた一枚の紙を見るように。
改竄の筆跡が、そこにある。
あの一撃が振り下ろされる過程の全体が、開かれた。
[書き換え動作 · 署名解析中...]
[実行者:接触対象]
[使用権限:render_priority MAX]
[基礎指令:terrain_overwrite()]
[パラメータ由来:インスタンス・ルートディレクトリ / 試練/接触/01.lks]
インスタンス・ルートディレクトリ。
接触対象の攻撃はそれ自身が生み出したものではない。インスタンスのルートディレクトリから読み出された一つの.lksモジュールだ。
それは何かを実行している。
それ自身はただの実行者にすぎない。
リカの頭のなかで、何かがつながった。
もし接触対象が過去の彼の書いたもので、その攻撃がインスタンスのルートディレクトリから読み出されたものなら——
賭けてみる——インスタンスのルートディレクトリもおそらく過去の彼が書いたものだ。
確信はない。だがもしそうなら、重要なルートディレクトリには、彼は必ずバックドアを残している。
それの爪がふたたび持ち上がった。
リカは振り下ろしの0.4秒前の兆候を読んだ——肩甲がわずかに沈み、爪の重心が後ろへ引かれ、インスタンスの演算リソースの配分が傾く——
今回は、避けなかった。
彼はそれが振るうのを見た。
爪が振り下ろされたその瞬間、内部視点が彼に一つのものを見せた。
[インスタンス・ルートディレクトリ · 隠しノード検知]
[ノード名:/dev/null(自動無視)]
[検知理由:パス命名異常 · 非業務ノード]
[備考:当該パスはインスタンスの全読取通道に読み飛ばされる]
/dev/null。
エンジニアなら誰もが知るパスだ。ここへ書き込まれたものは、すべて消える。
インスタンスのすべての自動読取通道がこれを読み飛ばす——つまりインスタンス自身は、これに触れにいかない。
だがリカがさっき起動したのは自動通道ではない、起動者の内部視点の隠しノード検知器だ——それは自動無視リストに入っていない。
だから、彼には見えた。
だがそれは存在している。
そこにある。静かにルートディレクトリに座っている。
リカの癖——プログラムを書いてバックドアを残すとき、彼はインスタンスからは掃き出せない、けれど自分は思い出せる位置に置くのを好んだ。
/dev/nullは、彼がもっともよく使ったその場所だった。
爪が彼の眼前2センチに迫る。
インスタンスがまた「想定外」を表示した。
彼は避けなかった。
それの爪がひとりでに2センチ逸れた。
インスタンスがリカに/dev/nullを見せたあの一瞬、インスタンス自身もその爪を逸らしたかのようだった。
/dev/nullが彼に応えたとは限らない。接触対象自身の判断かもしれない、試練モジュールの設計かもしれない、別の何かかもしれない。
だがあまりに頃合いがよすぎた。
リカは疑った——あのパスは生きている。
リカは一歩退いた。胸が激しく打つ——毎分158。
彼はいま、一つのバックドアを見つけたようだった。彼はいま、それに触れたようだった——そしてそれは、応えてきたようだった。
【第028話 完 · インスタンス内 · Rift Memory Layer 1 ルートディレクトリ】
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