第一部:鳴響篇

第 024 話| 氷下の呼吸

3 分で読了·1,164 字·公開済み
氷下の呼吸

層全体の時計はあれの呼吸に従う。レンダリングを犠牲にしても守られる呼吸。そして奥のものが、ついにリカを認める。

???

リカが1.6秒に戻したばかりの時計が、また遅くなりはじめた。

インスタンスは彼の命令を拒否しなかった――命令を実行し終えたあと、インスタンスは自然なドリフトを起動した。

緩慢なドリフト――5秒ごとに0.05秒ずれる。彼が命令を下さなければ、およそ80秒後には2.4秒へ戻るだろう。

消耗戦のようだ。

リカは足もとの氷晶が灯る速さを見つめながら、頭の中で冷静に計算した。

もし5秒ごとに一度命令を下せば、彼は1.6秒を維持できる――だが他のことは何もできなくなる。起動者の演算力をすべて、時計の維持に注ぎ込まねばならない。

もし手放せば、インスタンスは時計を2.4秒へドリフトさせる。しかしインスタンスにとって、2.4秒こそ今の「正常」なのだ。

つまり――インスタンスの「正常」とは、リカが入ってきたときより一段遅い状態だ。


彼は睨んでいた。層全体の演算力が通路の突き当たりにいるあれの維持に費やされている――インスタンスは一方で L.K.S._Core の書いた種子を走らせ、もう一方であれの呼吸を支えなければならない。


リカは時計を手放した。

彼は通路の突き当たりへ向かって歩き出した。


三歩目で、彼は聞いた。

耳ではない。

脳晶インターフェースが送り込んでくる低周波の信号だ――彼がインスタンスに入ったばかりのとき、1.6秒ごとに一度走っていたあのパルスと同じ周波数。だが位相が逆になっている。

彼は睨んだ――インスタンスに入ったとき聞こえたあの低周波のパルスは、インスタンスの心拍ではない、その呼吸だ。

インスタンスの層全体の時計の拍子は、初めからあれの呼吸に従っていた。あれがひと息吸えば、インスタンスは一拍走る。あれがひと息吐けば、インスタンスは次の一拍を走る。


リカは3秒立ち止まった。

彼はあの触手の束を振り返った――触手の束はまだ氷晶の外にあり、底の黒い液体はなお地面から50センチのところに留まっている。触手の末端、鱗状の肢端がかすかに揺れるリズム――

いま彼の頭の中で聞こえているあの呼吸と完全に同期している。

層のすべてが、あれの呼吸に従って動いている。

「ならこの層は、あれの肺だ。」リカは小声で言った。

脳晶インターフェースが点滅した。

[起動者観察登録:本層 ≈ 主対象の呼吸系統の延長]
[インスタンス進捗:32.4%]

リカは前へ歩きつづけた。

五歩目のとき、彼は灯っていない氷晶を踏んだ。

足もとの底が露わになった。

純粋な黒の地色 + 灰色のグリッド線。一マス1センチ四方。

さっき見たあの壁面の描画破綻領域と、まったく同じ下層だ。

インスタンスは彼に地面を敷かなかった。

彼はしゃがみ、手のひらを地面のグリッドに当てた。

触感はない。脳晶インターフェースが点滅した。

[Tactile feedback: not available]
[原因:local render bypass]

「レンダリングされていない。」リカは小声で言った。

インスタンスはダウンしていない。彼は睨んだ――インスタンスは意図的に、彼が踏む地面を描かないことを選んでいる。


リカは起動者の権限で命令を下した。

パラメータ調整:local_render_priority(self_path) = high

脳晶インターフェースが点滅した。

[起動者命令確認]
[実行失敗:priority queue 衝突]
[衝突対象:主対象の呼吸レンダリング]
[インスタンスは両者を同時に維持できません]

リカは画面を見つめた。

インスタンスにはそれだけの演算力がない。一方で彼のために道を敷き、もう一方で通路の突き当たりのあれの呼吸を維持する――二つを同時にこなすだけの。

インスタンスは後者を選んだ。

インスタンスはリカを虚空のコード層の上に踏ませてでも、あれの呼吸を守ろうとする。

「いいだろう。」リカは小声で言った。

彼は六歩目を踏み出した。足もとは相変わらず黒地のグリッド。踏み抜きはしなかった――インスタンスは物理層まで撤去したわけではない、彼は立っていられる――ただ地面が見えないだけだ。


七歩目。

呼吸のリズムが変わった。

もとは1.6秒に一拍。いまは1.6秒のあとに短い停止がひとつ加わった――およそ0.3秒――それから次の一拍が来る。

脳晶インターフェースが点滅した。

[警告:接触対象が能動観察状態に移行]
[原因:起動者の方位を感知]
[インスタンス進捗:38.1%]

リカは立ち止まった。

通路の突き当たりのあれは、ただ呼吸でインスタンスの演算力を占めているだけではない。

それはいま、彼を認めた。


二拍目の呼吸が0.3秒遅れた。その停止には規則がある――それが彼を見ているのだ。

リカは頭の中のあの低周波のパルスに耳を澄ました。

次の一拍。0.3秒の停止。次の一拍。0.3秒の停止。

停止のひとつひとつが、彼がたった今踏み出したその一歩に対応している。

それはインスタンスの時計を通して彼の位置を感知している。


「いい。」リカは小声で言った。

今度の「いい」は、さっきのときほど揺るがなかった――わけではない。


【第024話 完 · インスタンス内 · Rift Memory Layer 1】

0 人の読者がこの 話 にいいねしました

この作品の更新を追う

メールアドレスを登録すると、新章公開時にすぐお届けします。

観測者コメント

0 件

まだコメントがありません。最初の観測者になりましょう。