第 007 章| ソレンの弓弦
壁の文字が音もなく消える。老兵ソレンがカエルの出自を語り、左手の痕は4画目を刻む。夜、欠けた死骸が残る。
寒月 25 日、申の刻。
軍医のフェンが塔へ上がってきた。
「カエル、薬の替えだ」
カエルは左の脛を差し出した。フェンは包帯を解き、傷口を見て、指で周りを軽く押す——
「もう痒くないか」とフェン。
「ああ」
「痒くないのはいい」とフェン。「だが完全には治っていない。あと三日だ」
「フェン軍医——」とカエル。
「なんだ」
「第49塔のことだが——」
フェンが手を止めた。
「訊いてきた」とフェン。「第49塔で昨夜死んだのは、姓はリン、二十八歳、三班の巡視兵だ」
カエルはその名を記憶に刻んだ。
「リン、第49塔、卯の刻の少し前」と低くつぶやく。
フェンは彼を見たが、何も訊かなかった。
フェンは傷口を巻き終え、立ち上がり、去ろうとした。
「フェン軍医」カエルがまた呼び止める。
「なんだ」
「ソレン先輩のあの切れた弓弦——昨夜、噛み切られたあれだ——」
フェンが一瞬、虚を突かれた。「噛み切られたと、なぜ知っている」
「昨夜ソレン先輩が塔を下りるとき、俺に見せてくれた」とカエル。
「そうか」とフェン。「あの弦は俺も見た。擦り切れたんじゃない、噛み切られたんだ」
「何に噛まれた」
フェンはすぐには答えなかった。
一秒置いて、フェンが言った。「俺は第46塔を六年守ってきた。切れた弓弦なら山ほど見た——擦れたの、引きちぎれたの、刃で切ったの、手で触れば一目で分かる。これは違う。弓弦を一口で噛み切れるものは、六年、この手で触れたことがない」
「ソレン先輩は知っているのか」
「知っている」とフェン。「外には漏らすなと言われた」
「だが俺には話す」
「お前はカエルだ」とフェン。「ソレン先輩が言った。お前が訊いたら、話せと」
カエルは黙っていた。
フェンは去った。
申の刻の終わり、ソレンが塔へ上がった。
今日のソレンは塔を上がるとき、右の肩を落とし、片手で塔の壁を支えて最後の数段を上った。
「ソレン先輩」とカエル。
「カエル」ソレンが腰を下ろす。「昨夜は壁を守った。肩が痛む」
「あんた、行って——」
「行かん」とソレン。「フェン軍医に診せた。肩の痛みは傷じゃない、弓を使いすぎたんだ。年を取ると、肩が一矢一矢を覚えていやがる」
カエルは答えなかった。
ソレンが右手を伸ばした——四本指——壁を指す。
「カエル、あの壁の一画——」彼が指したのは三筋目の亀裂が走るあたりだ、「——下半分、文字がまるごと、もう無い」
カエルは壁を見た。
三筋目の亀裂——昨日ソレンが示したあの線、今朝には文字の下半分が空洞に広がっていた、それが今——
——文字がまるごと消えていた。
壁面のあの一画、残っているのは上半分の二画だけ、その下は一面の空白。
「ソレン先輩——」とカエル。
「いちいち『ソレン先輩』と呼ぶな」とソレン。「ソレンでいい」
「ソレン」とカエル。「下半分は、いつ消えた」
「午の刻だ」とソレン。「フェン軍医が塔へ上がって、お前の薬を替えた、ちょうどその時に、文字の下半分がいきなり消えた。音もなく」
「音もなく」
「音もなく」とソレン。「四百年のあいだ、壁の文字が剝げ落ちるとき、音があるものもある。音があるのは、剝げるのが遅い、一画一画落ちるのを見つめていられる。これは音がなかった。音のないのは、抜けるのが速い、振り返った時には、もう無い」
「『追えない』とは、どういう意味だ」
「つまり、あの一画の文字は、何かの力に一息で抜き取られた、ということだ」とソレン。「抜き取られたものは、いま向こう側にある」
「どっち側だ」
ソレンは彼を見た、一秒、見つめた。
「カエル、お前の父親は、姓はなんだ」
カエルは固まった。
「ソレン先輩——ソレン——俺は父親の姓を知らない」とカエル。「俺は守壁軍に瓦礫の中から掘り出された」
「知っている」とソレン。「だがお前の母親は——お前は知らんかもしれんが——お前の母親は、姓はレイヴンフェザーだ」
カエルは答えなかった。
「俺は壁を二十七年守って、レイヴンフェザー家のどの支流の者も見てきた」とソレン。「お前の目、顎、立ち方——お前はレイヴンフェザー家の一番西の支流、十二代より前の血だ」
「ソレン——」
「他には言わん」とソレン。「フェン軍医も知らん。ゴルム班長も知らん。俺の父親が生前、こう言った。『ソレン、いつの日か、十六の新兵を見たら、姓は違う、だが目は合っている——そのときは何も言うな、ただ見守れ』。俺の父親は二十七年前に死んだ、俺は二十七年、見つけられなかった。今年、見つけた」
カエルの胸が、ひと曲がりした。
「なぜあんたの父親は、俺を見守れと」
ソレンは彼を見た。
「お前の父親と、俺の父親は、同じ王朝で、抜き取られた者だからだ」とソレン。
「どの王朝だ」
ソレンは答えなかった。
ずいぶん経って、ソレンが言った。「カエル、あの壁を見ろ——下半分の無くなった文字——あの文字は、お前の父親の姓だ」
カエルは壁を凝視した。
あの文字の下半分がどんな形だったか、カエルにはもう見えなかった——壁のあの一画は空だ。彼は自分の左の手のひらを見下ろした。あの痕はまだある。痕の走り、曲がるところが、壁の抜け落ちたあの一截と、合っていた。
カエルは左手を広げた。
ソレンは一秒、見た。
何も言わなかった。
ずいぶん経って、ソレンが言った。「今夜、第三波だ。多いかもしれん。塔を下りろ」
「ソレン——」
「カエル、塔を下りろ」とソレン。「ゴルム班長が戻るのを待って、もっと話してやる。今夜はまず下りろ」
カエルは塔を下りた。
戌の刻、外で最初の咆哮。
カエルは塔の内に、聞いていた。
第三波、十八匹。ソレンひとり、長弓の弦は昨夜一本切れ、今日フェン軍医が新しいのを一本届けたが、ソレンは替えず、切れた弦を継ぎ合わせて使った——「新しい弦は手の感触が違う」というのがソレンの言だ。
子の刻、ソレンは十一匹を射殺した。
子の刻、三つ過ぎ、残る七匹が退いた。
寅の刻、ソレンが塔を下りた、無傷で、長弓の弦は——また二本目が切れていた。
「カエル、出てこい」
カエルは塔の内から出た。
塔の下、地面の上に、十一匹の猟犬の死骸。そのうち二匹が、体から大きな肉の塊を失っていた。弓矢が貫いた傷ならカエルにも分かる、縁が平らだ。この二匹は違った、欠けた縁に歯の痕がめくれ、何かが肉に喰らいつき、骨まで一截、持ち去っていた。
「猟犬に噛まれたんじゃない」とソレン。
「見れば分かる」とカエル。
「ああ」とソレン。「俺にも分かる」
ふたりとも、その欠けた二つの死骸を見ていた。
ずいぶん経って、ソレンが言った。「カエル、塔の内に戻って寝ろ。今夜は考えなきゃならんことがある」
カエルは塔の内に戻った。
塔の内に入る前、彼は左手を広げた。手のひらのあの痕、昨日はまだ三画、今日は四画目が増えていた。彼は右の人差し指で新しいその一画をなぞった、皮膚の下が硬く、何かが内から押し出てくるようだった。四画が合わさると、ちょうどあの文字の下半分の左の半分になった。
カエルは左手を閉じ、塔の内に入り、小帳面を二枚目に開いた。二枚目には昨夜書いた「忘れない」の文字、墨はまだ残っている。
彼は「忘れない」の下に、一行を加えた。
リン、第49塔、卯の刻の少し前。
書き終え、帳面を閉じた。
枕元へ戻す。
塔の外から、ソレンが弓を引きずって歩く足音が伝わってきた、一歩重く一歩軽く、肩を落とした側の足が、地を踏みしめていた。二日目の夜の雪が塔の頂に落ち、まだ冷え切らぬ彼の甲の上で溶けた。
【第 007 章 完 ・ 第47監視塔 ・ 寒月 25 日申の刻 → 26 日寅の刻】
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