犬の吠える線
山あいにある見えない一本の線。跨げば犬は踵を返して逃げ、人も不意に沢の外の音が聞こえなくなる。線の両側を、二通りの決まりが管しているようだ。
山あいには見えない一本の線がある。跨ぐ前まで犬はついてくる。跨いだ途端に犬は踵を返して逃げ、いくら呼んでも戻らない。線の上には実体のある界標がひとつも見つからないのに、それは確かに山あいを二つの世界に切り分けている。
青銅鏡はそれを映し出す。鏡の面を何もない空間に向けてゆっくり回すと、反射した光の斑は石壁と地面を離れ、宙のある一点まで漂って止まる。どう回しても同じ位置に戻る。羅盤をその高さまで掲げると、盤針は反時計回りに 40 度跳ぶ。外へ 50 センチずらせば 1 から 2 度の微震に戻り、また戻せば、やはり 40 度だ。3 本の垂直軸でそれぞれ一度ずつ検めても、読みは一致した。
気場密度の急変帯、垂直方向、三軸の検証は一致。
高度区間はおよそ 1.8 メートルから 3 メートル、境界の幅は 10 センチ未満と見積もる。
形状は未確認——一面につながっている可能性も、並んだ垂直の簾である可能性もある。
鏡で視認可、羅盤で計測可、肉眼では見えず。煙を吐きかけると、煙はその一点で懸かったまま動かない。横へ一歩ずらして吐けば、煙はふつうに散る。紙の玉を線の向こうへ投げると、軌道が 3 センチ逸れ、拾い上げると 3 度低い。手を差し入れても抵抗はなく、ただ水の紋が広がるような触感が皮膚に貼りついて上へ伝わってくるだけだ。
線の向こう側の決まりは別に一揃いある。灯りを消しても空気の中にはなお明るさが残り、光の色温度は午後の四時五時ごろのようで、腕時計の示す午前と噛み合わない。影はあるべき方向から 70 度外れる。奥へ 5 歩進んで振り返ると、線の外の人が 50 メートルも先に見える。音は通らない。相手が口を開くのは見えるのに、一言も聞こえない。腕時計は線を跨いだその一瞬におよそ 1 時間進んだ。
決まりが誰に効くかも一致しない。同じ一本の線を、沈照夜が渡ったときは影が 70 度逸れ、賀三金が渡ったときは少しも逸れなかった。
道の者は言う。この手の線を越えたら、外の人間に助けを呼ぶ声が届くとは思うな、と。
観測者コメント
0 件
