補遺|なぜ或る王は、即位の日に王冠は被れるのに、名は壁に刻まれないのか?
なぜ或る王は、即位の日に王冠は被れるのに、名は黙の壁に刻まれないのか。王陵祭文の残巻を何巻か繰ってみれば、「正統」という二文字は、人が決めているのではないのかもしれない。
(本則は民間で整理された王陵祭文の考証であり、白塔教会の立場を代表するものではない。参考まで。)
七国の子どもは皆こう教わる。王は神々に選ばれた者であり、即位の日に王冠を戴き、王座に坐れば、それが天命の帰するところなのだと。
だが流出した王陵祭文の残巻を何巻か繰ってみれば、この「天命」というものが、教科書よりずっと込み入った書かれ方をしているのが分かる。
祭文には繰り返し出てくる言い方がある。新王の即位は、2 つのことを済ませてはじめて「成る」。一つは王冠を戴き、王座に坐ること。もう一つは、自分の真の名を黙の壁に刻ませること。前者には時刻があり、主祭があり、帳簿がある。後者を執り行う者はおらず、それがどの瞬間に起こるのかを言える者もいない。
前のほうは、人の手でよほど手慣れている。王位が空けばすぐ教会が七日戴冠令を下し、令文には教皇が自ら署名し、七通を写して七国へ送る。七日目の日没までに、新王はあの椅子に坐っていなければならない。即位そのものは驚くほど短い。教会が祭文を読み、家主が列に並び、新王が七段を上って坐る。全部で四半刻もかからない。内廷の冊子はこの一日を細かく記していて、七通の令文の駅馬の数まで載っている。それでいて、刻名という欄は一つもない。
後のほうは帳簿に見当たらず、調べられるのは結果だけだ。鉄都王朝は王紀 412 年までに 105 代を数えた。この 400 年のあいだに教会は臨時聖議を 17 回開き、そのうち 14 回が継承のためで、その 14 回のうち 9 回は、教会がすべての家をさしおいて新王を直に指名している。
残巻の記すところでは、王座に坐った者の名が皆その石に入ったわけではない。王冠を戴き、王座に坐りきり、教会も宣したのに、黙の壁にはついに名の現れなかった王が何人かいる。史書がその人たちに付ける註はどれも似ている。在位が短く、幕の引き方が乱れた、と。
祭文は理由を書いていない。ただ一句、たいそう古い言い回しで済ませている。
冠は人の手にあり、名は壁にある。人は冠を与えることはできても、名を与えることはできない。
同じ一事に、七国は七通りの言い分を持つ。白塔教会の公式の立場はこうだ。壁の上の名は神が人に代わって帳をつけているもので、一代の功罪が収められてはじめて名が上がる。上がらなかったほうについては、教廷の神託には決まった六通りの言い回ししかなく、そのどれもこの件を担えない。だから教会の側から持ち出すことはない。黙境の老人はもっと露骨に言う。壁は生きていて、名はそれが呑み込んだものだ、上がらなかった何人かには壁が口を開かなかったのだ、と。サンゴールド同盟はこの論争に加わらない。彼らの長期契約にあるのは「黙壁条項」の一条だけで、壁が無くなった場合、北線の商路の違約金は算入しない、というものだ。
鉄都の文書がいちばん手間がない。兵部の檔案では、黙の壁は「北境辺防工事」の項の下にあり、番号も造価も歳修の銀両も一通り揃っていて、造価の欄だけが建国の年から空いている。刻名という項目はそもそも無い。やるべきことにしか予算はつかない。
よくある誤解を二つ、ついでに正しておく。刻名を即位の日に行う儀式だと思っている者がいる。黙の壁は王都から 800 キロ離れていて、使者は 5 日から 7 日走らねばならない。即位の日の王都に、あの石面で何が起きたかが分かるはずがない。守壁軍が知らせを上げると思っている者もいる。班の引き継ぎごとに残す簡記は、書式が何百年も変わらない。数えているのは獣と人の数で、壁の上の字のための欄は一つもない。
残巻の散逸はひどく、代の順に当てはめられるのは 19 人の王だけだ。この 19 人のうち何人かは、王冠を戴いていた時間が異常に長く、同じ代の貴族より数十年も長く生きている。祭文がその人たちに触れるところでは言葉づかいが慎重になり、ただ「久しく戴く」とだけ書いて、その後には誰かが刃で削り取った空白が続く。
これらはもちろん、史官の迷信として片づけられる。王が座を保てないとき、壁が認めないせいにするほうが、自分の不才を認めるより体裁がいい。ただ、その説明が成り立つには、あの壁が誰が椅子に坐るかについて何の意見も持っていないと、まず仮定しておかねばならない。
今度の即位はもう目の前にある。七日の期限は王都で数えるもので、黙境へ送る令文は駅道を 9 日かかる。北の家主があの金箔を開くころには、椅子にはたいてい誰かが坐っている。壁の上に名が一つ増えたかどうかは、使者が 5 日から 7 日を走り終えるまで、誰にも言えない。
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