缺のある万法
散修は「功法とはそういうもの、才と運次第だ」と信じている。だがその缺は揃いすぎている——天意とは思えぬほどに。
散修たちはこう信じている。「功法とはそういうものだ、頼りになるのは才と運だ」と。修行が伸びない、丹で脈を痛めた、突破のときに走火した——どれも自分の根骨が悪い、運がないせいにされる。
場所が変われば言い分も変わる。丹舗の店主は火加減のせいだと言い、あの夜の炉の炭から目を離したのだと言う。符の露店の古株は腕のせいだと言い、最後の一筆の収めが甘かったのだと言う。宗門の執事の言い分がいちばん体裁がいい——4 文字で、根骨のばらつき。言い分はまちまちでも、落ちる先はひとつだ。悪いのは人のほうだ、と。
この缺には、稼業ごとに別の呼び名がある。丹舗では回煞と呼び、符の露店では断筆と呼び、功を練る者は坎と呼ぶ。言っているのは同じことだ——そこまで行くと、ものが自分から止まる。
だが同じ吐納訣の写本を十数部並べて比べれば、缺けているのが同じ箇所だと分かる。坊市でいちばん売れているあの丹を裏返し裏返し検めれば、悪いのはいつも同じ一味だと分かる。青岐坊市の中どころの丹舗が 3 か月に売った凝気散のうち、戻ってくるのは少なくとも一割。裏庭の廃丹甕から出る、呑めば脈を傷める死黒丹は、毎月きっちり 2 つから 3 つ、何年も増えも減りもしない。玄照門の外門では今年 3 人の弟子を失った。根骨の深浅もまちまち、火加減の速さも違うのに、揃って同じ層、同じ関竅で倒れている。
断口の様子は、なおさら天意では説明がつかない。歳月に磨り減ってできた缺は、縁がぼろぼろで、ばらけていて、触れば毛羽立つ。ところがこれらの缺の断口は揃っている。起筆の角度も、続け筆の向きも、一つ一つ重なる。誰かが同じ刀を持って、同じ位置で、一部ずつ切り落としていったかのように。
「万法にはみな缺がある」——この一句を、坊市では人をなだめるのに使う。店主は元手を失った客をなだめるのに使い、老いた散修は入ってきたばかりの新参をなだめるのに使う。だがこの言葉は、もとから諦めさせるためのものだったとはかぎらない。あるものに「缺がある」とは、それがかつて完全であって、あとから一片を失ったということだ。
万法にはみな缺がある。坊市でこの一句の出どころを追う者はいない。追ったところで答えられる者もいない。本気で追うなら、追うべきは二つだけだ。この缺を残したのは誰か、残したものは誰のためにあるのか。
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